オタクは世界を救えない

『ジョゼと虎と魚たち』感想、俺たちに翼はないこともないらしい

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 ざっくり言うと今年見たアニメ映画で一番面白かった(そもそも他をあんまり見てないが)。

『ジョゼと虎と魚たち』は原作が1985年の短編小説。その後2003年に実写映画化。今回は満を持してアニメ映画化。原作、実写とは時代の変化もあってかストーリーもかなり違うようだけど、俺はアニメ版しか見てないのでその辺については語らず本題に入りたい。

面白いよ

 まずなにが面白かったかを語っていきたい。既に見たやつは言われなくてもわかると思うけど、俺の感想を整理するためにとりあえず羅列していこうと思う。

・テンポが良い
 俺はテンポ厨なのでエンタメ作品ではこのテンポとかいう曖昧な概念をかなり重視するんだけど、今作はそれがめちゃくちゃよく出来てたように思う。ほんとすごいんだよ。飽きない。退屈しない。ぶっちゃけ見に行く前は「なんか雰囲気推しっぽいしヒロインが車椅子だし、しみったれた話ばっかりでテンション爆下げになったらどうしょ……」とか思ってたんだけど完全に杞憂。
 序盤中盤終盤と無駄なシーンがなく、すごく丁寧な話作りなのにエンタメ的なストーリー展開がサクサク進んで小気味良い。わりと前半後半で空気がバッサリ切り替わってて色々仕掛けてくるような話なのに、これで全編98分しかないってのもその証拠。

 一応ちゃんと理由を考えると、たぶん余計な描写をかなり削ってるんだよな。わかりやすい部分として、主人公やヒロインの境遇を説明するシーンがだいぶ少ない。ジョゼのバックグラウンドって作中で実はあんまり言及されてなくて、海のシーンでちょこっと父親に触れたとこぐらい。主人公も変にそこを突っ込んだりしないし、ジョゼも全然自分から語ろうとしない。主人公も自分のことを喋ったのってかなり後になってから。
 でもそれって普通は違和感が出ちゃうし、キャラに感情移入させることを考えてわりと喋らせる作品が多いと思うんだよね。回想入れたりとかして。今作のすごいとこは、それをしなくても違和感がないとこ。ジョゼと恒夫のつかず離れずな関係性において必要な情報だけ明かして、要らない部分はまあ想像にお任せして、絶妙な空気感で話を作ってるのがすごい。

・ジョゼが可愛い

 オタク的最重要項目。女が可愛いアニメはそれだけでパワー。つまりジョゼ is クミ子。

 とりま顔が可愛い。なんか髪の毛とかふわふわしてて好き。引きこもりの車椅子少女が強がってツンツンしてるのは往年のツンデレを彷彿とさせて安定感が滲み出てるし、外に連れていくとデレるのはもはや様式美。それでいてあの年っていうガチ重めの社会不適合感とか電車の乗り方すらわからんみたいななのは、可愛さと可哀想さを両立させて俺たちの不安を煽ってくる。可愛いだけじゃ人は幸せになれないので、それがばーちゃんが死んだときに一気に襲ってきて「あー」ってなる。俺も恒夫も、ジョゼが可愛いってだけでじゃあ養ってやるぜとなるほど世間知らずでもないから、後半からのお話が余計に辛くなるわけね。

・転換点が潔すぎる

 ばーちゃんが死ぬとこ、なんだったらその前から「こればーちゃんいなくなったらどうすんだ?」とは思ってたから予定調和ではあったんだけど、あんまりにもあっさり死ぬしもういきなり転換点としてやってくるからテンポの鬼って感じ。あれよあれよという間にジョゼが社会のセーフティネットに頼らなきゃどうしようもないのにその方法もわからない世間知らずの役立たずであることが露呈されていって、恒夫も恒夫で立場が定まらないまま彼女を心配するだけのしがない大学生であることがわかってしまう。
 しかもこれがまだシリアスの入口でしかなくて、恒夫が車に撥ねられるシーンとかは内心で俺がやべーやべーって言ってる内に病院送りだった。雪だるま式にジョゼがぐちゃぐちゃになっていくの、これが行き着く暇もないってやつかっていう。

・絵本

 濡れた(目が)

青年には翼がありました

 さて、今作がどういう作品かという話を一言でまとめると、ずばり引きこもりが働き始める話ですね。

 ……とかいうといきなり陳腐な話に聞こえるけど、ストーリーってのは往々にして一言で済むテーマを長々と語るモノなのでまとめるとそうなる。
 ヒロインであるジョゼはばーちゃんと一緒に家の中に引きこもって、本を読んだり絵を描きながら、いつしか自分の足が人魚みたいになって外の世界を海を泳ぐみたいにして自由に動き回れたりしないかなって夢を見てる。それが恒夫と出会うことによってある程度外へ行けるようになり、自分の気持ちを口にして外の世界を知れるようになる。恒夫がいい奴っていう話ですね。

 それがばーちゃんの死をきっかけにして、現実に引きずり戻されるわけ。現実っていうか家の中かな。ジョゼは自分が一人じゃなにも出来ない奴だってことを思い出して、自暴自棄になってるところで恒夫の事故。気持ちいいぐらいにメンタルをぐちゃぐちゃにされたジョゼ。

 恒夫が事故ってジョゼと同じ車椅子になり、夢を叶えることができなくなってしまうかもってパート。これね、そんなに珍しい展開でもないと思うんだけど色々面白いシーンだよね。まあ恒夫もジョゼと同じ境遇になり彼女の気持ちを味わう~っていう要素が主だろうけど、俺はどっちかっていうと、ジョゼ視点で自分と同じ境遇の人が現れるっていうことの意味合いの方がデカいと思った。

 ジョゼにとってそれまで恒夫ってのは翼の生えたパねえやつだったわけね。地面を這いずってる障碍者の自分とは違って。「健常者には分からん!」って台詞にもある通り、どうしたってやっぱり自分は障碍者だからうにゃうにゃって気持ちがあるのは仕方ない。
 でもその違いが、恒夫の翼がもがれた時点でなくなっちゃうのね。留学が立ち消えになって抜け殻状態の恒夫にジョゼは謝ることしかできないし、それを不幸だって話にすると、だったらジョゼは最初から不幸だったって話になるじゃん? ここでジョゼと恒夫の境遇が強制的に一致させられるから、車椅子だから駄目なんだぁーって思考でやってると、ジョゼも恒夫も一生地面を這いつくばって生きる羽目になってしまうと。
 いやね、それで結局俺が何を言いたいかっていうとつまり、ジョゼが恒夫に夢を追いかけろと言うためには、自分自身にも同じことを言わないといけないって状況になってことなんだよ。

 だから青年に翼があることを教えるために、ジョゼにも翼が生えたわけね。それが紙芝居。というか絵本。そしてその読み聞かせ。憧れの男子を励ますことそのものが、自分自身を奮い立たせることに繋がったんだよ。俺は読み聞かせが終わった瞬間に心の中でスタンディングオベーションしたね。なんだったら恒夫よりも早く涙を流した。当たり前だろ、頑張ったやつが報われたら人は感動するんだよ。

"車椅子の女の子"を扱った話として

 障碍者って単語、人によっては色々思うところがあるかもしれない。最近だと『聲の形』って作品があった。俺はだいたい創作物の設定にそういうのがあると、なんか辛気臭いテーマの話なのかなって警戒してしまう節がある。今作も見る前はそういう予想が少しあった。リアリティがどうこうとかは置いとくとして、やっぱり創作物でそれを取り扱うことに関して触れておきたい。

 んでね、実際見てみたらちょっと思ったのが、障碍者って単語がそもそもほとんど出てこなくない? っていう。たしかにそりゃあジョゼは自力じゃ歩けないわけだからその辺が話の中心になるけど、恒夫に至ってはジョゼと会話する際にほとんどそれを意識させることがないし、ジョゼもジョゼで自分からその辺のハンディキャップをアピールしない。恒夫がジョゼに惹かれたのは彼女の描く絵が綺麗だったり海とか景色とかの見え方に興味を持ったからかもしれない。ジョゼが恒夫を好きになったのだって当然優しくしてくれる健常者だからってわけでもない。

 つーか恒夫が優しすぎるんだよな。あいつ、事故った後も一度だってジョゼのせいだとかそういうこと言わないんだよ。俺、他の作品とかの経験からだいたいこれ恒夫がどっかでキレて「お前さえいなければ!」みたいな言い方して事態が悪化するやつだと思ってたんだけど、結局恒夫はそんなこと一言も言わない。なんならあんだけキツくあたってた舞だって事故のこと自体は責めてないんだよ。同情してるだけとは言ってたけどね。
 だから、どうしようもないこと、過ぎたことに対して、誰も悪いとは言わないんだよな。だからジョゼが一人でぐちゃぐちゃしてるのが完全に自分の内面との闘いみたいになってて燃える。

 つってもやっぱり、ジョゼの足が不自由なことが歴然たるハンディキャップとして存在してることはみんな知ってるんだよ。言わないだけで、考えないだけで。だから追い詰められたジョゼは「健常者には分からん!」って言って逃げるんだよな。そしたら結局恒夫が健常者じゃなくなっちゃって分かるようになったやんけ! つって面食らうわけだけど。

 そこで重要なのは、当事者たちができる限りそれを言い訳にしないように生きてる点だと思う。なんだったら作品そのものが、一番の問題点をそこにしないよう作ってる点かもしれない。
 まあ昔は違ったと思いますよ。特に原作とか実写版が出た辺りなんかは。でも今ってぶっちゃけ車椅子でやってる人ぐらいいくらでもいるわけじゃないすか。なんなら俺の職場にだっているよ、車椅子で俺より素早く移動する人。
 それは時代の流れに適応した作品作りなのか、或いは意図的なテーマ作りなのか、たぶん今作は"車椅子の女の子"が主役なだけで、それ以上でもそれ以下でもない。だから俺はこの辺についてあまり深く考えなくてもいいのかなって思った。製作陣が深く考えて欲しいと思って作ってたら申し訳ないけど、ジョゼが抱えた問題は車椅子であることそのものじゃないんだ。それに起因する引きこもりだったり、世間知らずだったり、誰にも気持ちを告げず自暴自棄になったりすることだったわけで、その分かりやすい言い訳みたいなものが車椅子だったんだと思う。だからそれに気付いたとき、ジョゼは自分にも歩くための足の代わりに翼があることに気付けたんじゃねえかな。いや、もしかしたら人魚の尻尾かもしれんが。

まとめ

 半地下を這いつくばるオタクという名の芋虫として生きてるから、久しぶりに日の目を浴びて映画観に来たら思いの外面白い作品に出会えてびっくらこいた。こんな長文感想書くのも久しぶりすぎて加減がわからない。ちなみにタイトルの俺たちに翼は云々はどこぞのゲームの引用です。オタクだからサンプリングしちまうけど特に深い意味はないよ。要するになにが言いたいかっていうと、俺たちにも翼があったらいいよねって感じ。