オタクは世界を救えない

『天気の子』をあえて好意的に解釈する話をしよう

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 あの夏から約一年。ついに俺たちの新海誠が円盤に乗って帰ってきた!
 というわけで天気の子のDVD(俺は配信で買ったけど)を見て、もう一度楽しかったあの頃のことを振り返ってみたいと思う。

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  ちなみに一年前は↑のような記事を書いたのだけど、正直批判がメインだった。だって穴だらけだからね、この作品。でも面白い部分が多いのは事実で、シナリオ上のガバガバ部分を指摘するだけに終始するのは惜しい作品でもある。

 なので、今回は批判をせず、『天気の子』に潜む面白みを自分なりに解釈して語りたいと思う。あくまでも自分なりなので、的外れなことも言うかもしれない。あとパンフレットやBDについてくるらしい特典なんかも全スルーなのでガチ勢からしたら浅い部分もあるかもしれない。しかし俺は細かい部分を気にしない。そう、あえてね。

あえて無意味なタイトル

 『天気の子』ってタイトル、お前はどう思った?
 俺はダサいと思ったね。でもあえてそのダサさは気にしない。重要なことはもっと別にあるからだ。いや、ごめんないかもしれない。そもそもこの作品の主題は『天気』ではないからだ。

 これはどうせ後で腐るほど言うから今は触れるだけにしておきたいんだけど、この作品の主人公やヒロインたちにとって、『天気』というものはさほど重要なファクターではない。俺たちのほとんどが新型肺炎にかかっていないのと同じように、お前らのほとんどが黒人差別の被害にあっていないように、それは世間にとっては重要なことかもしれないけど俺には関係ない。いくらコロナが流行ろうが黒人が白人にぶち殺されようが、俺が童貞だってことは何も変わらないのだから。

 なのにタイトルは天気の子。なぜか? きっと新海誠はミスリードをしたかったんだと思う。あえて『天気』をタイトルとして掲げることで、あたかもそれが重要であるかのように仕向けたのだ。そう、あえてね。

あえて過去を説明しない

 帆高が家出して東京に出てきた理由はあまり深く語られない。作中で主に取り上げられるのは「なんか息苦しかったから」という理由と、「あの光の中に行ってみたかった」という理由。それから序盤の帆高が絆創膏をしている辺りから「故郷で誰かと喧嘩して(どうやら父親らしいが)出てきた」なんて理由。あとは彼が携帯している本『The Catcher in the Rye(ライ麦畑でつかまえて)』が有名な家出小説だという点ぐらいか。

 帆高が家出した具体的な理由やエピソードは作中ではまったく語られない。キャラクターの掘り下げ、それも主人公の動機というのは、観客から共感を得るために必要不可欠なものであるにも関わらず。お話作りの基本に対してガン無視決めるというストロングスタイルを貫いてまで新海誠はなにをしたかったのか?

 俺が思うに、帆高の過去は語られる必要がなかった、あるいは語られるべきではなかったのだと思う。この作品で描かれる主人公は、なにも特別な存在ではない。その辺にいる普通の高校生である。普通の高校生は、家出せざるを得ないような重大事件には遭遇しない。彼の家出に、その行動に、理由や意味や具体的なエピソードを持たせてはいけないのだ!

 帆高のパーソナリティはあくまでも『家出少年』。それ以上の価値は彼にない。重要なのはそんな家出少年が何と出会い何を選択するのか。

 ついでに言うと、陽菜さんのバックグラウンドもあまり語られていない。せいぜい母親も天気の巫女だったらしいという描写とかそれぐらい。彼女が小学生の弟と二人暮らししている具体的な理由とか、母親の死の悲壮感を演出するための親子エピソードなんかもない。

 今作において重要なのは、家出少年とちょっと苦労してる少女がセカイの命運を握るという設定。彼らは特別な人間ではない。だから過去も説明しない。そう、あえてね。

あえて魚に言及しない

 雨粒が魚になった姿を見たことがあるか? 俺はない。
 同様に、帆高や陽菜にとっても魚の形をした雨粒が危害を及ぼしたりなんか事件を起こしたりもしない。別にその辺のクソガキが溜まった水流に押しつぶされていても、ツイッターで拡散されていても、そういうのは彼らにとって関係ないから言及しない。これはあえるまでもない。

 でも、だったらなんでそういう不必要なシーンを描写したんだ? 関係ないならそもそも画面に映すなよ! そう思うかもしれない。でも違うんだ、関係ないことはこの世の中にいっぱいあるし、それは天気の子ワールドでも変わらない。たとえば風俗嬢スカウトの木村に子供がいたってどうでもいいように、彼らや俺らに関係ないことはいくらでも存在する。
 でもこれは映画なので、ここでいきなり一般人Yの食事シーンを描写しても仕方がない。だから関係ありそうだけど関係ないシーンを描くことで、彼らにとってクソほど関係ないものがいくらでもあるんだ! という描写をしているのだ。そう! あえてね!

あえてあまり貧乏ではない

 初めて帆高が陽菜’sハウスを訪れた際、彼はポテチにチキンラーメンとかいう謎チョイス(ポテチはともかくチキンラーメン?)を手土産に持ってくる。それを陽菜は上手い具合に調理し、ぐちゃぐちゃになったポテチをなんかチャーハン的なものにかけて玉子をのせ、草とチキンラーメンを一緒くたにしたやつとあとなんかうどんみたいなのとかまあ色々出す。

 しかしこれを、有識者は全然貧乏ではないと指摘する。俺は上級国民なのでこれでも貧相だなあとは思うのだけど、どうやら生活保護受給者レベルになるとこれでも豪華に感じるらしい。まあたしかに品数が多い時点で貧乏っぽくないし、盛り付けも綺麗なのが底辺感を薄めている。

 どうやらパンフレットなんかだと新海は「貧困層の暮らし云々」が今作の数あるテーマの一つだったと語っているらしいが、それならもっと汚らしい飯にした方がよかったという意見はもっともだ。

 それ以外にも彼らの暮らしにはそこまで貧乏臭さを感じない。須賀さんの家は結構広い上に隠れ家的なオシャレ感があるし、陽菜さんと先輩の二人暮らししてる家だって荒れてる様子がない。先輩が小綺麗にしててモテモテなのはむしろ上流的なそれを感じさせる。

 なぜ新海誠は、貧乏さを印象付けるために陽菜さんに豚の餌を食べさせなかったのか? その理由は簡単だ。日本は比較的中流層が多いからだ。なぜ多い層に合わせるのか? それも簡単だ。彼らは別に特別ではない、いわゆるボリュームゾーンに位置する人間だからだ。

 どこにでもいる普通の高校生であるところの帆高、そして陽菜において重要なのは不幸そうに〝見える〟という点だ。『ライ麦畑でつかまえて』とかいう本を帆高が読んでいることに少し上でも触れたが、あの小説のストーリーもだいたいそんな感じだ。主人公はなんやかんやと社会や大人に文句を言いながら家出旅をするわけだが、別にライ麦畑の主人公も勝手に家出してるだけで悲劇を背負っているわけではない。
 これは青春モノ。あるいはジュブナイルといった方がそれっぽいかもしれない。陽菜さんは親戚にでも後見人になってもらえば済んだ話を、ちょっと悲劇っぽい感じで弟と二人暮らししてるだけでそこに大した意味なんてない。そしてこれは金銭問題に限った話ではない。帆高も陽菜も、数年後にはなんの問題もないまま成長を遂げている。彼らは不幸なのではなく、不幸っぽい状況を意味もなく悲観するただのクソガキなのである。

あえて天気に実害はない

 これが本題。もう他の部分は読み飛ばしてもいいからここだけでも聞いていってほしい。

 上に載せた以前の記事でもここは散々書いたんだけど、要するにこの作品、天気が悪くなることによる主人公たちへの実害というのは皆無なのである。

 それを説明するために、まずストーリー上で登場人物が直面する障害・苦悩を挙げてみよう。

①帆高が東京で路頭に迷う
②陽菜がバイトをクビになり、風俗に身を落としそうになる
③須賀さんが亡き妻との子供の親権を取り返せない
④夏美の就活が上手くいかない
⑤帆高が警察に追われる
⑥陽菜と先輩が児童相談所に追われる
⑦陽菜が能力の使い過ぎで消滅する

 なんか調子に乗って挙げ過ぎた感もあるが、だいたい天気の子で現れる障害はこんな感じ。では次に障害の原因を考えてみよう。

①帆高が東京で路頭に迷う
 →帆高が無力な家出少年だから

②陽菜がバイトをクビになり、風俗に身を落としそうになる
 →両親がいない子供だけの暮らしを無理に続けようとしていたから

③須賀さんが亡き妻との子供の親権を取り返せない
 →ババアがわからずやだから。須賀さんが信用されていないから。子供が喘息持ちで、雨の日は会うことができないから。

④夏美の就活が上手くいかない
 →夏美が無能だから

⑤帆高が警察に追われる
 →家出なのと拳銃所持(していた)から

⑥陽菜と先輩が児童相談所に追われる
 →(なぜか)子供だけで暮らしていたから

⑦陽菜が能力の使い過ぎで消滅する
 →晴れ女ビジネスの代償

 ……わかったか?

 彼らが不幸になる原因に、天気が関係していることはほとんどない。
 あるとしたら陽菜が人柱になることだけど、これも別に彼らがビジネスで能力を使いまくっていた代償。そもそもビジネスをしなければ能力をそこまで使っていないわけで、ビジネスをやっていた原因は彼らの金銭事情による。当然、金銭事情と天気はなんの関係もない。
 一応、あとは須賀さんの娘かな。須賀さんだけは唯一晴れを真面目に願ってる人かもしれない。娘に会える機会と直結するからね。一人の犠牲でみんなが救われるならいいじゃんとも言っているので、作中で陽菜が消えて明確に特をするのは彼ぐらいになる。

 まあそういうわけなので、実は天気の子において、天気が悪いこと自体は悪いことじゃない。シリアスなシーンで雨が降っているとシリアス感が増すが、序盤の須賀さん家に住み込みで働いているときの楽しげな挿入歌シーンですら雨は普通に降っているので、別に雨が降っていてもあまり問題はないという演出意図が伺える。

 しかしここで目敏いオタクは気付いている。序盤から、テレビのニュースやスマホの画面なんかにちらりと映る異常気象の記事、雨量がうんたらみたいな強調。話には直接関わってこなくても、世間的にはこの天気の悪化が重大事件として扱われていることが示唆されている。

 と、そんなこともあまり気にせず帆高と陽菜は能力を使う。天気を晴れにして人を笑顔にするなどというのは建前で、ひたすらに報酬をかき集めるため陽菜さんの身体を酷使する。「天気で稼ごう!」という台詞の通り、彼らはむしろ天気を乗りこなしてビジネスに利用しているというのが驚きだ。なんなら雨が降るほど陽菜さんの需要は増す。人が死ねば死ぬほど儲かる葬儀屋と同じ理屈で、雨が降れば降るほど彼らのビジネスは成功に近づいていく。
 このときの帆高はまだ本当に大切なものがなにかをわかっていない時期だから、「晴れていると気分がいいなあ」とかいう台詞を吐くが、それはとんだ間違いである。彼らは天気が悪いことによって利益を得ている、いわば天気界の葬儀屋なのだ。

 そしてテレビに取り上げられると身バレが怖くなり、天気市場から撤退の意思を示す帆高。晴れパワーの原材料であるところの陽菜’s肉体も限界が来ていたらしいのでこれが潮時。そう、退く判断がここで既に出来ているのが偉い。つまり彼らは、見事に天気を掌握、利用しきって市場の波を制覇したのである。なんかこの後に力の使い過ぎで乳首まで消えかかっている陽菜さんの身体を見て驚く帆高だけど、正直言ってそうなった理由の大半は警察に追われてたせいである。陽菜さんが能力を使って雷を落としたシーンを覚えているだろうか。陽菜さんは天気を支配できるので雷を落とすことも容易いのだが、それは警察を殺すために使用された。晴れなんてもはやどうでもいい。エイムがクソだったからトラックに間違って落ちたけど、このとき彼女は確実に、自分の本当の敵を理解している立ち回りをしていたわけだ。

 ……と、このように、やはり天気の子において天気の異常気象は主人公たちになんの実害も与えていない。ついでにいうとエピローグでも、東京にいない主人公には全然関係ないのはもちろん、陽菜さんの家も水没を免れているらしいし、なんか家が水没した婆ちゃんも「しゃーない」みたいな雰囲気なので、帆高の知り合い範囲内では被害ゼロといっても過言ではない。

 人によっては、この辺りの描写が足りていないと嘆く人間もいると思う。実際には住む家が全滅してどこにもいけない老人とか、おぼれ死んだホームレスとか、会社が倒産して自殺に追いやられた自営業のおっちゃんとかもいたかもしれない。それらを無視して主人公たちの周りだけハッピーエンドっぽく描くのは選択の重みを表現しきれていないのではないか?と。

 しかしこう考えることはできないか。あえて描いていないのだ、と。

 これは帆高と陽菜、そしてその周辺の物語だ。それ以外の人間が死のうが生きようが彼らには関係ない。帆高も言っている。「天気なんて狂っていてもいい」と。もうそのまんまだ。天気が狂っていてもいい。その影響で誰が被害を被ろうが知ったこっちゃない。帆高にとって一番大切なものがなにか。それは陽菜だ。今もアフリカでは貧しい子供が一秒に何人という単位で死んでいる。でも陽菜の方が大切なのだ。

あえて東京を水没させる

 この世界はやたらと天気が悪いことをアピールしてくる。タイトルしかり、演出しかり、様々なところで異常気象に触れてくる。当然、世界は陽菜に対して人柱としての役割を要請してくる。セカイ系にありがちな世界とヒロインを天秤にかける展開だ。そこで大抵の物語は世界とヒロインを同じ重さで天秤にかけて比べてしまうわけだが、天気の子のすごいところは、あえて世界を軽く見せることで帆高の等身大の価値観を徹底的に描写しているところだ。

 帆高にとって、世界っていうのは退屈で、逃げ出したくなるようなものだ。家出してきた自分に冷たくて、誰も助けてくれなくて、大人の理屈で自分たちに危害を加えてくる国家権力の犬もいる。こんな世界を救う意味がどこにある?

 一応ちゃんと言うと、帆高が東京に来て職探しをしている間、優しくしてくれた人間は須賀さんと陽菜さんだけである。それ以外の人間を救う理由なんて帆高にはない。Yahoo!知恵遅れにでも聞いたら間違いなく世界を救えと言われるだろう。でも帆高はYahoo!民に散々バカにされてきた。そんなまともな返しもくれない連中になにを聞けばいい? だいたい、陽菜さんが世界を救えることは彼ら以外に誰も知らない。彼らが世界を救う理由があるとしたら、それは単なる「そうした方がいいのかなあ」ぐらいの価値観であって、光を求めて家出してきた少年がそんな凡庸な答えを出すはずもない。

 自分に関係のないことや、どうでもいいことは、切り捨てても構わない。作中で何度もそういうふうに描写されてきたものにようやく帆高は気付き、選択する。

 数年後のエピローグで、何度も帆高は「まあ東京が水没するのは仕方ないことだから気にすんなよ」みたいに言われるけど、これは違うんですね。仕方のないことだから気にしないんじゃない。そもそも最初から気にするべきことじゃないのだと。

 その結果、最後のモノローグがこう↓

違う! やっぱり違う! あのとき僕は――僕たちは、たしかに世界を変えたんだ! 僕は選んだんだ! あの人を、この世界を、ここで生きていくことを!

 ということで、帆高は〝あえて〟東京を水没させることを選んだ。成り行きでも仕方ないわけでもなく、帆高は東京を水没させ、陽菜さんを救うことを選んだ。
 そして脚本は、その選択を必然のものとするために、あえて天気の被害も描いてこなかった。だってそれは主人公には関係ないから。自分にとって一番大切なものはなにか? そのためにどうでもいいことで目を曇らせていないか? そういう作品。

 だからお前ら、曇るなよ。この作品には大量のブラフが仕掛けられている。自分が本当に選ぶべきものがわかりにくいこの現代を表現するために。無駄なものが書いてあったり、必要そうなものが書いてなかったりする。そう、あえてね。

僕たちはきっと大丈夫だ

 上記の理由により、東京が水没することなんかへっちゃらなわけですよ。いい加減もうわかるでしょ? だから説明はしない。そう、あえてね。